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ホソダ興産 社長物語

先代の時代

ホソダ興産 社長物語ホソダ興産の前は新興商事という名前でした。

今やっている不動産業は現つくば市の旧桜地区でうちのおじいちゃんの代から始まりました。
最初はうちの父もおじいちゃんと一緒になって不動産屋の仕事をしていました。幸い、小さい頃から人付き合いがうまく、相手を思って一生懸命仕事をしていると父自身の成果がどんどんでてきます。

昼は親の会社で仕事をし、夜は自分自身の取引を積み重ねていったのです。そしてあまりにも働き、仕事をするものですから父の体を家族が心配するようになりました。

「家族と一緒だと心配をかけてしまう。」
「自分でも結果を出せる。」

と思った父はおじいちゃんと同じ不動産業という道で独立する事を決めます。

そして、昔からの信頼もあって仕事は順調にすすみ不動産の仲介数をどんどん重ねていきます。
父いわく、ピークの時には年間53件(1週間に1回ペース)の不動産仲介をしたそうです。(バブルの時は午前に買ったのを午後に売る事もあったようです。)

大手企業に行っては高額契約を決め、さらにその会社に勤める人にも住宅用地を売っていきました。
たまたま映画館に座った人に土地を売ったり、親戚の事故を起こした示談を担当した警察官にも土地を売るなど、縁があった人にどんどん、どんどん不動産の仲介していたそうです。

昼の取引が落ち着くと夜は寿司屋や割烹屋など店へ出かけて行って店主を相手に土地の紹介を続けました。

その積み重ねが今のホソダ興産の基礎となっています。

ホソダ興産 社長物語起業したての会社

父の実家は不動産業をするまえには、大変貧しく、生きる為に養豚業をやっていました。

その為、父も幼い頃から家の手伝いをやります。
当時は大切な豚が出産するといえば子豚が出てくるのを朝から晩まで見守りました。
豚は商品であると同時に大切な家族でしたので、その家族の出産、病気、怪我などがあれば人間だっておちおち寝ていられないのです。

病気、出産となれば寝ずの看病。
本当に家族と同じように大切に大切に育てていました。
そういう環境だったので父もおじいさんが市場へ豚を売りに行く日には家族の為に早朝からご飯を作ったり、豚の餌を仕込むようになります。
また、飼育はもちろん毎日やっていましたが、大きくなってきた豚をどんどん販売していかなければ毎日の生活費はありませんでした。
そこで一頭丸々の販売はおじいさんが担当し、大きくなりすぎた豚や売れ残った豚はその肉からコロッケを作り父が近所に売って歩いていくようになります。ただ一生懸命働いても働いても・・・・生活は一向に楽にはなりませんでした。
ただ生きる為に家族一丸となってとにかく一生懸命仕事をしていました。

しかし、ある日、予想しなかった衝撃的な事が起こります・・・。
それはある日、父が大切に大きく育てた豚をリアカーに乗せて市場へ運び入れている時に起こります。

小さな体で大きな豚を運んでいると、突然後ろから物凄い音をたてて大型トラックが迫って来ました。
普段なかなか見ない大型トラックだったので、父はおもわず ・・・じっと見つめたそうです。
田舎道はトラックもほとんど通らないので、積荷が気になりました。
そして、よく見てみると、その積荷は・・・・・!

豚を何十匹と乗せていたのです。
そしてトラックはリアカーを追い越してさっそうと市場に入っていきます。
父はビックリして市場に急ぎますがリアカーが重くてなかなか先には進めません。

やっとの思いで到着する頃にはあのトラックからドンドン、ドンドン豚がいっせいに出てきます。

「リアカーでは太刀打ちできない・・・。養豚業も終わりだ・・・・。」

その瞬間に父は思ったそうです。

その光景を見たあと今後を考えて、土地の開発がはじまったばかりのつくばで新たに不動産業を始める事になりました。

父は幸いにして昔から近所の人にかわいがってもらいながらコロッケを売り歩いていたので
不動産業をはじめたといえば、中には大きな資産を任せてくれる人もいました。
そしてそれを後押しするかのようにつくばで、EXPO85(科学万博)がおこなわれます。

当時のつくばは道路も完全には舗装されておらず、科学万博に間に合うように応急措置的に作った道はまだ砂利道でした。
そして、深い山中だったつくばで車を止められると「山賊に襲われる。」、「追い剥ぎにあう。」というのが都心の人のもっぱらの評判でした・・・。
そんなつくばにも本当に万博がやってきて、それに関連する観光や仕事へと全国、全世界から多くの人がつくばに訪れます。

それに合わせるように地元では万博需要に合わせたアパート、マンションの建築が急ピッチで始まりました。

その波に乗るように父の商才が発揮されホソダ興産の土地、不動産仲介や売上げもアパートマンション管理個数もどんどん増えていきました。

当時小学生だった私は「不動産」の意味さえも良くわかっておりませんでした。
子供の頃を思い出すと父にはいろいろな場所に連れて行ってもらったのをよく思い出します。
そして、その移動ついでに、お客さんの所へ寄ると「ちょっと行ってくる。」と言ってはなかなか戻らない事が多かったものです。
あまりにも待ち時間が長いときは車の中で寝てしまったり、待ちきれなくて中まで親父を呼びに行くことも良くありました・・・。今思えば困った子供です。(^_^;)

又、親父と一緒になってお客さんの家へ行く事もよくあったのですが話がとにかく長ったのしか覚えていません。しかもほぼ世間話です・・・。
(今ならわかりますが、不動産屋の仕事って9割位は世間話で大切な所は1割くらいですよね。子供の私にはすべて世間話にしか思えませんでした。)

そういう父の背中を見ていたので、子供ながらにいつしかお父さんは何をしているの!?と聞かれると
「いつも、お茶飲みばっかりしてるよ!(ーー;)」と近所の人には言っていました。

そして会社は当初から非常に忙しく、父はいつも家に居ないというような生活でした。

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