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ホソダ興産 社長物語

大学時代(後編)

ただ連絡は取れるようになったもののイベントを一緒に企画するのはもちろん、イベントへの一時的な参加でさえも非常に困難を極めます・・・。

というのも、茨城県という場所はよくよく考えると広大な面積をもっているからです。
自分と同じ大学の人や、自分が居る場所から近い人を100人、200人集めるよりも距離的な問題や他大学生との交流を目的とすると・・・想像以上の難しさがあります。

というのも、北は茨城キリスト教大学、南は流通経済大学や県立医療大学まで直線距離にして約100キロ以上も離れているからです!

なので定期的なミーティングはもちろん、真ん中で会おうとしてもお互いに約50キロの距離を移動してもらう必要があります。(50キロの移動には大変な労力、時間もお金もかかりますよね・・・。)

いくらインターネットが普及してきたといってもネット上での情報交換をしているだけでは全然もの足りません。人と話す楽しさをみんなにも知って欲しい!という主旨である以上・・・・、なんとかお互いに顔を突き合わせたい!というのが私の強い願いでした。

しかし、組織1から作って運営していくには私の経験と知識が全然足りませんでした。

連日のウィークリーマンションや賃貸の掃除をしながら合間を見て北から南までの移動、そして交流会の勧誘やホームページ上に上げる企画書作り。その企画書を先生へ見てもらってアドバイスを受けます・・・。

そして少しづつながらまとまりかけた団体を何とか動かしていく事は・・・・正直、泣きたくなるくらい頭と労力、参加者への大変な気づかいをします。

・・・・大きなイベント前には緊張から全然眠れず、体重は減少し肉体的にも精神的にも、もがき苦しむ日々が続きました。

ホソダ興産 社長物語水戸整備公団の方と茨城県内外13大学の交流会にて
(前列一番左が細田)

特に第6回の交流会に関しては水戸駅のゴミ拾いをしていた関係で水戸整備公団の所長さんに清掃機械の使い方をレクチャーしてもらったり、父の一言で水戸信用金庫本店の会議室を土曜日にあけてもらって使うことになっていたので失敗すれば“ホソダ興産”の名前にも傷がつくと思って絶対に失敗はしたくありませんでした。(今考えればそんな事はないと思うんですが、当時は社会経験が少なかったので本気でそう思っていました。)

ただそういう不安と葛藤の中、本当に苦しんで、辛くて、悩んだ中に産み出た交流会はどの回も本当に協力してくれた仲間のおかげで大成功でした。そしていつのまにか遠くは県外からもいつも間かネットワークが広がりイベントに参加してくれる人も自然と増えていきました。

ホソダ興産 社長物語茨城県内の大学交流会(一番左)

考えてみれば、今の私があるのも産みの苦しみが本当に大きかったこの交流会をやりぬけた事が大きいと思います。そしてそんな中で協力してくれた仲間はもちろん、イベントに参加してくれた仲間にも心から本当に深く深く感謝することが出来たのも交流会をやったからこそだと思います。(ちなみにこの第6回交流会が私の記念すべき新聞掲載1号になります。)

また、それが縁で茨城県庁の女性青少年課にも足を運ぶようになりました。
というのも県の押し進める企画で大学生間の交流と社会人の交流を目指している団体がある事を知り、その団体と私達の目指す方向が同じだったのでその情報を詳しく聞きにいったのが最初のきっかけでした。

そして、その流れで茨城県の主催するワインパーティーの司会や茨城県知事に提言をする青年懇話会の会員に任命されることになります。

そういう貴重な経験をさせていただけたのは本当に学生交流会という存在とそれを支えてくれた仲間がいたからです。
私は当初は来る予定ではなかった大学生活という短い時間の中で本当に活かされてきました・・・・。

(この交流会は仲間がそれぞれ就職し、仕事で忙しくなって集まれなくなってきたのでその後1年後に無事に終わらせる事ができました。 しかし、その時のつながりで一緒に集まっていたいた中学生、高校生とは今でも土浦花火大会の翌朝のゴミ拾い活動で一緒にボランティア活動を続けています。)

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